30年ぶりの島原出張

一昨日から昨日にかけて、長崎県島原市に出張の撮影に出かけてきた。島原市内のいくつかの会場で開催されてた全九州の高校バレー大会。知ってる人もいるかもしれないけど、あたしは大学を卒業後、毎日新聞社の写真部に入り、なぜか福岡勤務になった。その年、1992年は毎日新聞社にカメラマン(正式には写真記者という)が5人入社したのだが、東京で3人、大阪で2人。大阪の2人はそのまま大阪勤務になり、東京採用の3人のうち、ひとりが福岡(北九州市の西部本社)に行くことが運命づけられており。

あとから聞いた話だと、そのころ西部本社の写真部長だった石田さんが東京採用の3人の履歴書を見て、オグラがいちばん優秀そうだということで九州に呼んでくれたらしい。あとでニヤニヤしながら「失敗した」と何度も石田さんから聞かされた。まだお元気なんだろうか。ふつうに考えたら、亡くなっててもおかしくないけど。

今回の島原出張の話をいただいたのはいつ頃だったか。年末かなぁ。よく覚えてないけど。去年は映画『水俣曼荼羅』に関連して6月に天草に、8月に水俣に行った。映画に出てくる素敵な女性に会えないかなと思って。6月の天草は本当にとんぼ返りだったんだけど、借りたレンタカーの車窓越しに霞む島原半島の島影を見て、ああ、いつかまた島原にも行きたいと決意したものだった。

92年に毎日新聞社に入社した僕は、91年の春に青田買いのセミナーを受け、6月には毎日新聞社の本社で行われた面接に呼ばれてた。6・3の雲仙普賢岳の大火砕流の直後だった。

いまでもはっきり覚えているのだが、面接の席で、人事部長の石黒さんから、「ご存じのとおり6・3の大火砕流で、我が社の社員も何人か命を落としました。あなたが現場にいたら、どうしていたと思いますか?」と聞かれた。いま思えば、わざと厳しめの質問をして面接を受ける学生の反応をみる“圧迫面接”だったんだろうけど、そのときは当然、そんな言葉も知らず。地でふつうに答えてた。

「たぶん死んでいたと思います」

そしたら人事部長の石黒さん、「君は要領いいって言われない?」とか言って。

かろうじて、なんだこのおっさん、と思ったのは覚えてる。

そんなことで春のセミナーでは第一志望の朝日新聞社には落ち、ともに合格した某経済紙と悩んだのだが、某経済紙は社長のカオ写真とか工場の写真とかばっかり撮らされそうで、毎日新聞社を選びましたとさ。

というのは半分ウソで、毎日の内定者仲間に千葉大に通ってた素敵な女子大生がいて。内定者が集められるたびに、帰りの電車はいつもいっしょだった。

その女子から「オグラくん、他社に行っちゃダメよ」と潤んだ瞳でいわれ、毎日に決めたわけで。
これは実話。ちなみに彼女は東北の支局に配属され、いろいろあった挙げ句、数年で共同通信の記者と結婚して、退社してしまいましたとさ。

そんなことはどうでもいいのだが。

何の話だっけ。ぜんぜん話が先に進まない。おれはドストエフスキーかよ。笑

あ、日経を蹴ったもうひとつの理由は、社内をいろいろ案内してくれ。写真部も見学させてもらった記憶がある。そのとき、当時の人事部長(だと思う)が、「毎日、給料うちの半分だからな」と言ったのが致命的だったかな。そこで自分の中の何かがプチッと切れた。結果的にはよかったのだと思うのだけれども。八女の山奥の小学校にも通えたし(後述)。

まあけど、あのとき日経に入ってたら、いまごろはウォーターフロント(死語?笑)のタワマンの上層階に住み、美人妻と、私立に通わせる子どもふたりと、あとムダにゴージャスな室内犬といっしょに暮らしてたかもな。

…っていうか、合わないだろ!? このオレに。笑

ま、気を取り直して。

92年4月に毎日新聞西部本社に写真記者として配属された僕は、幾度となく雲仙普賢岳の取材で島原に行った(気がする)。正直、あんまりよく覚えてない。でもたぶん、取材はいつも日帰りで、島原で宿泊した記憶ってない。いや、わかんない。あったかもしれないけど、覚えてないだけかも。あとでも書くけど、写真部の仕事って、たいていが、被災●年とか、そういう記念行事ばっかりで。それが本当につまんないなーとずっと思ってた。あたしは日常を撮りたいんだよ。最初から最後まで。

長崎というと、生月島での海難事故の取材を覚えてる。こちらは現地の旅館に取材拠点を設けて、泊まりがけの取材だったような。いまは亡き戸澤デスクに僕の写真を褒めてもらった気がする。なんか18世紀の音楽家のような、戦前の文豪のような、めちゃめちゃ怖い感じのデスクで、ペーペーの僕なんかは、会社で泊まり番の朝刊の締切後の反省会では、いつも怒られないかとビクビク萎縮してたような気がする。まあ福岡で覚えた芋焼酎のお湯割りを3杯くらい飲むとデスクだろうが誰だろうが、まったく関係ないんだけどね。笑

ここから先はもしかしたら愚痴になるかもしれないけど、新聞社の写真部って基本的には受け身で。とか書くと批判というか反発をいただくかもしれないけど。でも本当のこと。事件事故とかが起こると報道部から声がかかり、同じ社有車に乗って現場に向かう。写真部の独自企画がないわけじゃないけど、ごくごく稀なわけで。

僕は新聞社を1997年1月に辞めて、それからもう25年くらいが経つわけだけど、以前はよく「なんで毎日新聞をやめたんですか〜」って聞かれた。そのたびに、なんて答えていいのかわかんなかった。

ヒマなとき、ひとりでクルマの中で時間を持て余してるとき、ぼんやりとその質問の答えを探し。

こないだ、ようやくその答えらしきモノを見つけ出した。答えらしきモノに辿り着いた。

当時のデスクのTさんに、「ネタを出せ」って繰り返し言われてた。たしかに先輩カメラマンたちはどこからかネタを見つけてきて、写真主体の記事にまとめてた。文字原稿は自分で書いたり、記者に書いてもらったり。でも僕は、そのネタをどうやって見つけてきたらいいのか、まるでわからなかった。

ある先輩が、地方紙に載ってる小ネタとかを参考にするんだよ、みたいなことを教えてくれたのだが、なんかそれって人のふんどしで相撲を取る?みたいな感じがして嫌だった。僕ら写真部は、警察担当とか行政担当とかみたいな、担当する相手がないので、どうやって新聞記事に仕立て上げる「ネタ」を見つけてくるのか、まるっきり見当もつかなかった。相談する相手もいなかったしね。

いまなら自分が納得のいくまで、相手かまわず聞いて回るけどね。仲のいい記者に「ネタってどうやって探すんですか」って聞いたり、西部本社や福岡総局の全記者に「写真記事になるようなネタはありませんか」って聞いて回ったりとか。残念ながら20代前半から中頃のオグラさんは、いまみたいな鋼鉄なハートは持ち合わせておらず。

そうだ、思い出した、僕が唯一と言っていいほど、数少ない自分で選び取ったネタ、当時の星野村、いまは八女市に合併されちゃったけど、星野村の山奥に、仁田原小学校っていうのがあり。その小学校が、山村留学というのを受け入れていると知り。行きたいと思った。それから1年くらい、休みの日を利用して、何度も撮影に伺った。すごい楽しかった。一度、それを写真記事にまとめた。

デスクのTさんに、「お前は全然ネタを出さないじゃないか」と言われたとき、「山村留学のヤツを…」って辛うじて言い返したら、即座に「そんなの1年生でもできるだろ…」と言われ。

多分、そこで心が折れたんだと思う。なんだこの人、僕のことをまったく評価しようとしてくれない。こんな会社にいてもダメだ。もう辞めるしかない、と。

まあ両親の離婚とか、そのころ結婚しようと思ってた女性との関係とか、まあいろいろあったんだけど、男なので仕事のことがやはり決定的になるわけで。

僕が、辞めます、と言ったあと、そのTさんがすごく寂しそうな顔でいた瞬間をいまでも覚えてる。

あれ、何の話だっけ。

そうだ。「成長する」という話だ。あれ、混戦してるな。「成長する」というのは、twitterで書いた話だ。最近あたしはドキュメンタリー映画にハマっており、去年4回見た『水俣曼荼羅』から始まって『スープとイデオロギー』、そして3回見た『チョコレートな人々』、2回見た『みんなの学校』と続く。

ごめんなさい。もう何を書こうと思ったか、わかんなくなったので、このへんでいっぺんアップします。アップして、客観的にメタ思考して、追加するなり修正するなり、石田三成、岡本三成。

けど、成長するってこととメタ思考って、メダルの両面みたいなもんだよね。メタ思考がなければ、つまり自分を客観的に見ることができなければ、成長なんて夢のまた夢だし。

けど、『チョコレートな人々』の夏目さん、『みんなの学校』の初代校長の木村先生みたいに、ひとの成長を促す役割の存在って、本当に大事だよね。もちろん自分も一緒に成長するんだろうけど。映画の中では夏目さんの成長は奇跡のように描かれるけど、初代校長の木村先生の成長は、映画の中では、ハッキリとは描かれない。どうも物の本によると、というかネットに散らばっている文書によると、初代校長の木村先生は大空小学校がスタートする直前の1年ほど、人知れず死ぬほど悩んでいたと聞く。その悩みがどのようなモノであったのか、大空小学校が設立された奇跡の背後にあるモノとは、というのがあたしのいまのモチベーションのひとつ。

あんまり関係ないけど、大空小学校って、大阪市住吉区にあるんだけど、すぐそばに長居陸上競技場ってあるんだよね。いまはnaming rightで、ヤンマースタジアム長居、って名前らしいけど。ここって敬虔なる創価学会員なら誰でも聞き覚えがある名前で。そう、歴史的な6段円塔を完成させた、関西青年平和文化祭。昭和57年3月22日。1982年。

それから40年が過ぎ。映画『みんなの学校』の最後のほうに、この学校に通うお母さんたちの懇談会の様子が描かれる。インクルーシブ教育(特別支援学級で学ぶとされる子どもたちも普通学級で受け入れ、一緒に学ぶという包括的な教育)に詳しい学者の先生がお母さんたちに話す。

“こうやって子どもたちをみんな一緒に学ばせると、まずは子どもたちが変わります。そして親が変わり、何十年かすると地域が変わるんですね”、と。

その言葉を思い出し、大阪市住吉区の衆院選の選挙区をググってみた。そしたら公明党の佐藤茂樹がずっといる大阪3区じゃあ〜りませんか。もうびっくり。創価学会はこうやって何十年もかけて三変土田してるんだな、としみじみと思った。

自分でも書いててホントにまとまりないと思うのですが、あとで修正します。笑

島原出張ですが、金曜日の夕方の飛行機で長崎空港に行き、その日は諫早のホテルで一泊。翌日、朝7時に宿を出て、先輩カメラマンの運転するレンタカーで島原市の復興アリーナに向かいました。1時間半弱かかったのかな。ところどころ有料道路?みたいなところを通るんだけど、基本は下道で。遠かった。

島原復興アリーナにはバレーコートが4つ設けられ。メインに3つ、サブに3つ。僕は申し訳ないことにサブアリーナを担当させてもらい、試合を6試合、チームの集合写真を6チーム撮らせていただいた。

あとで読み返してみて、変なところがあったら直します。

まったく読み返してないけど、このままアップしますね。

大事なことを書くのを忘れてたので、加筆。今日は2023年の2/15。

1991年6月3日の大火砕流で、毎日新聞は3人の社員を失った。そのうちのひとりが、写真部員だった石津勉さん。当時33歳。

入社して、北九州市にある西武本社に勤務した僕は、どういうわけか石津さんの形見である自動車を譲り受けることになった。僕の記憶に間違いがなければ、ISUZUのアスカという名のセダン。おしゃれなクリーム色をした。いまでも住んでた志徳公団の北側の坂の途中にある駐車場に止められたISUZU アスカの姿を覚えてる。

譲っていただいたのはいいのだが、元の持ち主が亡くなっていて、「遺品」という扱いになるので、名義変更するには、相続の権利があるすべての方々の相続放棄の書類が必要になるわけで。

これがイヨーに面倒で何度も泣きそうになった。で、すべての相続人の方々の相続放棄の書類をかき集めて、名義変更を終えた頃には、僕は福岡総局に転勤してた。笑

たぶん、1992年の終わりか、1993年の初め頃だったのだろう。まったく記憶にないし、その頃はまだGoogle Mapsのログもない。まったくなんにもない。

福岡市東区の香椎あたりにあった陸運事務局で愛車 ISUZU アスカの名義変更を終え、るんるん気分で福岡都市高速を南下してきた僕は、当時の終点の百道ICで降りて、自宅方面に向かうべく、交差点を右折…しようと…した…。

そしたら交差点の向こうから直進してきたクルマが!

ブレーキを踏む間もなく、ドカーンと正面衝突。さいわい、向こうのドライバーさんにも、僕にもケガはなく。あっという間に警察無線を聞きつけたレッカー車が登場。愛車アスカは西区の自動車整備工場に運ばれ、あとから僕も駆けつけたら、ひとこと「廃車やね」と。

ああ、石津さんは自分の形見の愛車を、知らない新人に譲りたくなかったのかな、と思った。

形見の愛車を譲り受けるにあたっては、なにかしら仁義を切るべきだったのかなと、55歳を3か月ほど過ぎた今となっては、思わないでもないけどな。

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