今日は、横木安良夫さんの写真展に伺うために、目黒まで行ってきた。
目黒駅って、ふだんはほとんど利用しない。以前は雅叙園で、フジのデジカメの発表会によく行ったものだが、デジカメの発表会にも、最近はほとんど行くことがなくなったわけで。
●●小学校行きという、まるでスクールバスのような東急のバスに乗り、いくつめかのバス停で降りた。目的地のギャラリーは、私立の学校の向かい、閑静な住宅地のなかにあった。
ギャラリーの壁面いっぱいに貼られた、さまざまなサイズのモノクロプリント。真四角だったり、長方形だったりというのは、写真が撮られたカメラのフォーマットを反映しているのだろう。
帰り際に、横木さんに、感想は?って聞かれた。うまく答えられなかった。お仕事でお世話になっている写真家の方の写真展に行くと、いつも、何を言っていいのか、分からなくなる。写真うまいですね、っていうんじゃあまりにも失礼だし、いい写真ですね、っていうのは、あまりにもありきたりだ。写真家の方が、その写真展という「場」を創り出したことに対して、的確なコメントを発しなければいけない。いちおう専門誌の編集者だし。(笑)
それはそうと、考えていたことはこんなことだ。
銀塩のシャープさには、デジタルでは、どんなに画素が増えようとも、けっしてかなうことができない。銀塩のシャープさというのは、ある意味、アナログなだけに、宇宙に果てがどうなっているかわからないのに似ている気がする。どこか神秘的なものを含んでいる。デジタルは、所詮はデジタルなので、数値に還元できちゃうというところがぜんぜんロマンチックじゃない。
福生の米軍基地の子どもたちの写真。二人の男の子がクルマのなかからこっちを見てる写真。それから、兄弟とおぼしき女の子と男の子がふたり立ってる写真。弟なのであろう左側の男の子は凧揚げの真っ最中なのか、糸が空に向かってフレームアウトしている。女の子は、かわいい。理知的な、なかなかいい顔をしている。ふたりとも、めちゃくちゃ立派な、ということはないけど、キチンとした、あったかそうな洋服を着てる。たぶん、親の愛に包まれて、すくすくと育っているのだろう。
それから、クルマの助手席に座るガールフレンド?の写真。運転席から、至近距離で彼女の半身が写るその写真、すぐそばにコンタクトシートも貼ってあったけど、たぶん、20mmとかの超広角単焦点レンズで撮られたモノと思われ。20mmレンズを20mmの画角で使えることの至福。レンズの端(周辺部)までをちゃんと使ってあげてる、キモチヨサ。そんなことをも思う。
当時の学生運動の写真。新宿駅での騒乱の様子。若者が、若者らしく、批判精神をたぎらせて、熱かった時代。単純に、率直に、うらやましいと思う。手でフィルムを巻き上げて、手でピントを合わせて、手でシャッターを切ることができた、そんな時代。
なんていうか、カメラが半透明な物体でいられた幸せなとき。いまは、なにもかも自動化されて、フィルムもなくなって、写真を撮ることは手軽になったはずなのに、なにか気難しくなっている、現代のデジイチたち。気軽にカバンから取り出して、風のようにシャッターを切ることが、どうもうまくいかない。視神経の延長たりえない。街が悪いのか、自分が悪いのか、カメラが悪いのか。
けど、昔をうらやんでも、何も始まらないことも分かってる。
いまの時代をいまのカメラで切り取るしか、ない。
いま生きてるというのは、たぶん、そういうことなんだろうと思う。