螢雑想171031

きょうの午前中、所用で市川のほうまで行き、帰りのクルマのなかだったか、いつものように、ボーッと考えごとをしてた。なんでおれは金がないのだろうなあ、って。笑

前にも、同じことを考えたことがあるんだけど、カネがない、仕事がない、ってことは、たぶん、まだ自分の果たすべき責務?を果たしてないんだろうな、だからカネがない、仕事がない、という状況を通して、天がそれを気づかせてくれてるんだろう、と思うわけで。そのことを今日はさらに強く思った。

そのあと、ご飯を食べたり、祈ったり、すこし寝たり、撮影の仕事を探したり、してたんだけど、そのどっかで思ったこと。ちょっと飛躍するかもしれないけど。

よく生物の種族が生き残ってる理由として、強いからとかじゃなく、環境の変化に適応したから、みたいなことがいわれるけど、その応用編(?)。

いまこの世に生き残ってる生物(種族)って、たぶんだけど、自分たちの種族が生き延びるだけじゃなく、まわりの他の種族(生物)たちにも、なにかしら、分け与えてきた、そういう種族こそが、生き延びているんだと思われ。誰かから聞いたことではないし、いままで自分でも考えたこと、なかった。でも、たぶんきっとそうに違いないと思われ。

なんでそう思ったかというと、柿とか梨とかって、よくいわれるのが、タネを鳥とかに食べてもらって、遠くに自分の子孫が芽を出して…みたいなことをいうけど、それだけだったら、あんなにいっぱい実をつける必要ないんじゃないかな、って。

あと、これもずっと自分のなかで疑問だったこと。世界的な仏法指導者、僕の人生の師匠に、池田大作という人物がいらっしゃるのだが、池田先生は、なぜ過去世から仏法の指導者として、何度も何度も地球上に生まれてきて、ありとあらゆることを知り尽くしているはずなのに、わざわざまたこの日本に生まれてきて、戸田城聖という師匠をいただいて、一から学問を修めたのだろうか。

その結論の第一歩が、きょう閃いた。考えてみたら、簡単なこと。

人間が母親のお腹のなかで、地球上の生物の進化をおさらいするように、世界的な仏法指導者も、新しく生を受けるたびに、最初から学び直す、おさらいをするんだね。
思い出す、といってもいいかもしれない。たぶん、DNAには全部、刻まれてる。

そうやって考えると、師匠というのは、思い出すための、手伝いをしてくれる存在、なんだね。
考えてみたら、とっても簡単なこと。

さっきの生物の進化の話、よく飲み友だちの石川恵と話すんだけど、なんでニワトリは、無精卵を産むのだろう。
いや、ほかの鳥がどうなのか知らないんだけど、卵というのが自分たちの子孫を残すための手段だとしたら、それだけの理由でニワトリが卵を産むんだとしたら、無精卵って、殻を作らずに流しちゃってもいいよね。けどニワトリは、そうはしない。いや、人間の行った過酷な品種改良とかで、ニワトリが毎日のように無精卵を産まされるようにアレされてるとしたら、ひとこともないんだけどさ。

なにがいいたいかというと、話は最初に戻るんだけど、ひとは、あるいは生き物は、誰かを幸せにするために生きてる、誰かを幸せにするために、生まれてきた。間違いなく。

あと、最近、死にたい、っていう話を中学生から聞いたんだけど、自分が死んでも誰も悲しまない、っていうから、おれは悲しいよ、悲しいのと同時に、いや、それ以上に寂しいよ、っていった。そう、悲しいというのは、そのうち忘れる。けど、生きてる限り、寂しいという気持ちは続く。たとえば3年か4年くらい前に死んだ、うちのネコ、クロ。いまもひとりで台所にいるとき、ニャーン!ってクロを呼ぶもん。たぶん、次にネコを飼うまで、ずっとそうやってクロを呼ぶんだろうな。

なんの話だっけ。そう、死にたいと思う中学生に言いたいのは(いや、中学生だけじゃないな、大人も、ね、死にたいと思うのは、あなたの脳味噌だけなんだよ。あと、残りのカラダ全体は、生きたい、生きたい、死ぬまで生きたい!と全力で思ってるんだよ。だって、あなたが食べたモノ、時間が経つと、茶色くなって、出てくるでしょ。笑 あれは全身の臓器という臓器が協力し合って生み出した藝術作品だよ。俺は心の底から、そう思うけどな。黄金色の液体だって、そう。だから、脳味噌だけで勝手に死にたい、と思っても、ほかの臓器たちに断りもなく、勝手に死んじゃダメだ。俺はそう思うけどな。たぶん、たぶんだけど、地球上のどこかに、あなたを待ってる人がいるから。もし万が一、死ぬまでそういう人が見つからなかったとしても、あなたが死ぬまでしてきたお仕事で、ずいぶんたくさんの人たちが、幸せになってると思うよ。うん、たぶん間違いなく、そうだと思うよ。

前にも書いたと思うけど、仏法に説かれる一念三千って、僕はものすごく多くの目的地に飛行機を飛ばしてる世界的なハブ空港を思う。いや、空間的なだけじゃなく、時間的にも、ね。一念三千って、時間的にも空間的にも融通無碍なことをいうんだと思うんだけど、仏法の修行が進むにつれて、この一念三千を実感できるようになっていくと思う。

あしたは市川のほうで、保育園の入園式の撮影。なので死ぬほど苦手なスーツ着用。でもたぶん、あしたも、前に会ったことがある人たちと、たくさん、再会できると思うんだ。
この確信が、仏法なんだよ。これも何度も書いてるけど、仏法上は、縁と恩は、ほとんど同じ場所にあるんだよ。「えん」と「おん」、五十音でも隣だけど。

そろそろ寝るね。
あしたも村上だ。11月、チョー楽しみ!!!

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