藤原章生記者の発信箱「なぜ私たちは…」 2007年2月18日

とても感銘を受けたので、ここに全文引用させていただきます。

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発信箱:なぜ私たちは…=藤原章生

 なぜ私たちは、すぐ水に流すのだろう。19世紀末に日本人の内面を探ったラフカディオ・ハーンの随筆集「心」(岩波文庫)でも、真っ先にこの性質を紹介している。

 柳沢伯夫厚生労働相の「産む機械」発言を聞いた在京特派員が口をそろえた。「普通なら、政治家として終わりだ」。では、石原慎太郎・東京都知事の言葉はどうだろう。ここで問題にしたいのは彼の品性ではなく、聞く側の感覚だ。

 「三国人が凶悪な犯罪を繰り返し、大災害時には騒じょう事件すら想定される。治安維持も皆さんの大きな目的」(00年4月、陸上自衛隊の式典で)。後で石原氏は釈明したものの、こうした言葉は差別や不安をあおる。長(おさ)と呼ばれる人物なら、口が裂けても言ってはならないせりふだ。ルワンダを挙げるまでもなく、似たような言葉がどれだけの命を奪ってきたか、知らないはずはない。

 「(ある教授の言葉を引用し)女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄ですって」(01年10月)。柳沢発言よりもひどい差別発言だが、謝罪はない。

 「打ち合わせのため」と部下まで飛行機のファーストクラスに乗せる。15回で約2億4355万円の海外出張をする知事一行を、通勤ラッシュにもまれる私たちは、ただ許してきた。

 なぜ私たちは許すのか。暴言で傷ついた人々のことなど、すぐに忘れてしまうのか。ハーンが紹介した例は、許しを請う罪人に対する庶民感情だった。石原氏はそうではない。私たちは水に流せるだけの事を彼にしてもらったのだろうか。では、それは何だろう。(夕刊編集部)

毎日新聞 2007年2月18日 東京朝刊
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最初、最後の「では、それは何だろう」というのが、単なる修辞句に響いたのですね。でも、何度か読んでいくうちに、いやけっしてそうではない、藤原記者が、そんな言葉遊びを最後に残すわけがない、と思い至り。つまりどういうことかというと、石原を都知事として選んでいる僕らの(というか僕は東京都民ではないのでアレなのだが)心の中に、幾重にも渡る問題発言を許してしまうほど、彼の言動を、彼の存在を、歓迎している、渇望しているモノを、もっているのだ、ということで。

それは具体的に何かといえば、ズバリ、北東アジアの近隣諸国への漠然とした警戒感、敵愾心、のようなものではないだろうか。そういう意味では彼(都知事の石原)は、非常に巧みにバランスをとりながら人心を掌握することに成功を収めている、といえるだろう。4月の都知事選挙が見ものだ。

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