(仮題)なんか急にわかったこと

何日か前から書きたいと思ってたことを書く。それにしてもMacintoshの標準のヒラギノ明朝の美しさよ。Windowsの標準の游明朝と同じ人が作ったという話だけど、どう考えてもヒラギノ明朝のほうがずっと上で。ただそれだけのために、あたしはブログはMacで書くと決めてる。

それはいいとして。

たぶん、一週間くらい前だったかなあ、近隣市のある場所で、すぐそばで、中1の男子が、スマホゲームをやるのを、すぐ後ろの席から眺めてた。電車の中とかでサラリーマンがゲームをやるのをなんとなく視界に入れる、ということは、まあたまにあるけど、これだけ至近距離で、中学生が、スマホのシューティングゲーム?をがっつりやってるのって、たぶん初めて見たかも。

それを見て、ものすごい衝撃を受けたのね。彼は慣れた指さばきで、敵?をバッタバッタと倒し。ものすごいスピードで動くビジュアル。圧倒的な表現力。さすがに音は鳴らしてなかったけど、スピーカーをオンにしたら、ものすごい迫力のBGMや効果音が鳴り響いていたと思われ。

それをみて、急にわかったんだよ。ああ、いまの若い人たちって、こういう環境で生きているんだって。

こないだ飲み友だちの石渡さんと飲んだときも話したんだけど、こんな魅力的な娯楽? 時間つぶし?があるのに、いまの若い人、読書なんかするわけないって。あんな文字がひたすら並んでる「本」なんて、誰が好き好んで読むかって。せいぜい国語の教科書に載ってる物語を読む程度でしょう。

ちなみに、って自分の話をしても仕方ないけど、あたしは大学生のとき、ドラクエの3だか4だかを2日か3日くらい徹夜してやって、終わらせたときに、途端に虚しくなって、ファミコンとドラクエのカセットを学生部の先輩にあげてしまった。それ以来、ゲームというモノはほとんどやってない。旅先で暇なときに上海とかいう麻雀牌を使ったゲームにいそしんでたくらい。それも何十年も前の話だけど。

ゲームにひたすら打ち込む中1男子をみてたら、なんかいろんなことが一瞬でわかったんだよね。

いまの若い人たちが高市早苗を支持しちゃう理由とかも。

彼らは感覚で生きてるんだ。好きか嫌いか。論理的に物事を考えるということを、たぶんあんまりしない。直感で投票先を選んじゃう。だから簡単に電通に騙される。

話は一気に変わるんだけど、ここ数日、2023年7月x日の聖教新聞を読んでてね。池田先生が学生部の代表に御義口伝の講義をしてた頃の話が書かれ。その受講者の代表が紹介されてた。ひとりは島さん。北陸の学生で、ネフローゼを病み、信心で治して、信心の確信をつかんだ。聖教新聞の記者になって、なんとペルーに特派員として派遣される。のちにペルーの創価学会の理事長になって、ペルー広布に生涯を捧げる。

もうひとりは埼玉の女性。しっかり予習をして、先生の前で朗読、通解、研究発表をして、褒めていただき。その決意のままに埼玉広布に駆ける。

記事を読んでたら、池田先生は、ふたりに、同じようなご指導をされるんだよね。

「自分らしく行きなさい。人と比べる必要はない」と。

どういう意味なんだろう、ってぼんやり考えてたんだけど、もちろんいろんな意味が取れると思うんだけどね、いまのあたしには、ほかの人には理解されなくても、自分でこうだと思ったことをどんどん実践していきなさい。それが本当に広宣流布の役に立つと思うのならば、ってことなんじゃないかなあと。

何から先に書くか、少し悩むんだけど、あたしはいまの聖教新聞社は、って本質は創価学会は、なんだけど、聖教新聞の過去記事とかの扱いについて、少々、商売的に神経質になりすぎてる気がする。もちろん記者の人たちが手間暇かけて作り上げた記事は、聖教新聞社の「商品」なわけで、それで対価を得ようとするのは当然のことかもしれない。だけど一方では、聖教新聞というのは広宣流布の武器、弾丸な訳で。あるていどは自由に、友人にコピーして配ったり、いい記事があったらネットで紹介したり、ということがあってしかるべきだと思うわけだ。

なんとかっていう退転者がいて、広島の壮年部らしいんだけど、そいつは学会をくさすために聖教新聞の記事をガンガン、ネットに載せて、愚にもつかないような悪口を書いてるみたいで、聖教新聞社から訴えられてたけど、当然だと思うけど、そういう極端な連中じゃなく、善意で、広宣流布の役に立てたいという純粋な気持ちで聖教新聞の記事をネットで紹介することは、大目に見てほしいというか、それこそ、よくいわれるフェアユースだよね、あんまりケチくさいことばかり言うんじゃなくて、広い心で認めてほしいんだよね。

たとえば、3年経ったら、聖教新聞の記事は基本的にはフリーにする、とかさ。よほどひどい誹謗中傷とかは論外だとしても。

そもそも、釈迦の説いた法華経に著作権はありますか。鳩摩羅什が漢語訳についてカネを請求してますか。日蓮大聖人の御書は、いかがですか。

とにかく、ケチくさいことを言うんじゃなく、聖教新聞の記事の引用、紹介が、世界広宣流布にとってプラスなのかどうなのか、という正視眼で、とらえていただけたら、これさいわい。

何でこんなことをだらだら書いてるかっていうと、そろそろ“そういうこと”をガンガン始めていこうかなあと思ってるわけで。台所の隅に積んである聖教新聞の過去のヤツも、だんだん残りが少なくなってきたので、そろそろ聖教新聞をリアルタイムで購読再開しようかなと。そしたら“今日の聖教新聞”とかって題して、いろいろ記事をブログやYouTubeで紹介したり、してみようかなと。

『法華経の智慧』もがっつり研究発表したいんだよね。どういうわけか、誰もやってないみたいだし。

あたしとしては、先生の対告衆だった遠藤さん、須田さんに期待してるんだけど、おふたりとも、なぜか、いまは微妙なお立場みたいだし。それなりにご高齢だろうしね。

こないだ亀戸で飲んだ学生部時代の先輩、いろいろ言いたいことはあるんだけど、『法華経の智慧』をぜんぜん読んでないというのを聞いて、倒れそうになった。彼は自主的にドイツとか海外のSGIメンバーと交流してるらしいんだけど、なんかそれを勝ち誇ったように自慢してたけど、池田先生の遺言たる『法華経の智慧』を読まずして、なにが海外交流だ、と心の底でちょっとだけ思ったのは、ここだけの内緒話ということで。笑

しかもなぜ、こういうマニアックな話を、船橋創価新聞でも船橋政治新聞でもなく、あたしのメインの個人ブログ『螢雑想』に書くかな。みんなびっくりするじゃない。しないか?笑

とりあえず推敲前だけど、このまま出しちゃう。っていうか、あたしブログの文章とかってほとんど推敲しないのよね。書き出し、そのまま。生一本。意味違うか。笑

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