今日の9時半のバスで、カンボジアのプノンペンに向けて、出発します。
20年前、2003年に出版社を辞めるとき、インドシナを一周したときは、ホーチミンからミニツアー?ということで、カントー、チャウドックを経由してプノンペンに行った記憶があります。
今回はツアーは避けたい。前回の「ツアー」では、たしかカントーでは一泊、代理店に決められた宿に泊まり、決められたレストランで食事をとり、決められた船に乗ってメコンデルタを巡り、という、便利は便利なのですが、いま思えば微妙と言えないこともないわけで。
今回は、自由度を優先してツアーの類いは利用しないことにしてます。メリットとデメリットを秤にかけて。何か月か前にAmazonで購入したカンボジアとベトナムの「歩き方」も持ってきませんでした。単に忘れただけなのですが。笑
いまや地球上、どこででもネットにつながるわけで、「歩き方」のたぐいのガイドブックがなくても、ちょいとググれば、必要な情報は簡単に引き出せます。「歩き方」はヒマな時間の読み物としては、まあまあ楽しいのですが、必要な情報を引き出すツールとしては、とっくにオワコンですよね。各都市を紹介する末尾に掲載されている宿の情報とかって、もはや笑うしかないわけで。
いま、宿の五階の窓のすぐそばで、鳥の鳴く声がしたので覗いたら、小さなスズメみたいな鳥が、遠くへ逃げて行ってしまいました。もしかしたら、最近なくなった、あの方でしょうか。
僕は昔から何度も書いているように、この仏法を実践し、極めていくと、一念三千がどんどん完成していくのだと信じています。「一念三千」って創価学会員なら誰でも知ってる言葉だと思いますが、みなさんは一念三千をご自分の言葉でどれだけ説明できるでしょうか。
僕は、この信心を、この仏法を極めていくと、時間的にも、空間的にも、融通無碍になっていくのだと思っています。わかりやすく具体的に言うと、僕は何度もこのサイゴンに通っていますが、たぶん、昔、ここに住んでたんだと思う。もしかしたらベトナム戦争の末期とか。
これもtwitterとかでよくつぶやくので、ああ、またか、と思われる方も少なくないと思うのですが、僕はカメラマンなので撮影で幼稚園とかによく行くわけで。そのとき、初対面なのに、やたらなついてくる園児がいる。そんなとき、ああ、この子たちと昔どっかで会ってたのかもな。いや、きっとどっかで会ってたに違いない、と強く思います。さすがに、いつどこで会ってたかまでは思い出せませんが。笑
なにひとつ確信なんかはありませんよ。でも、池田先生が『法華経の智恵』のなかで、パスカルだったかの言葉を借りて、死後の生命について説明されている箇所があり。誰も死後の世界を見た人はいない。でも、死後の世界があると信じて、今世を生きて、困る人は誰もいない。逆に、死後の世界なんかないと思って、今世で好きなだけ悪いことをして、死んで、もし死後の世界があったら、たいへんなことになる、と。笑
まったく同じことを思う。なにがいいたいかというと、