画像整理という苦行

ここんとこずっと撮影が続き、僕にはよくあることだが、後回しにしてたらどんどんやらなきゃいけない画像整理が溜まってとんでもないことになって。

その溜まっていた画像整理を昨日いっぱいと、そして今朝はやく起きて片付けて、ものすごい解放感に浸ってるとこ。ここだけの話、土曜日の幼稚園の運動会が7000枚近くあるんだけど、それはまた別の話。笑

きょうは撮影も、夜の村上(の個別指導塾)もないので、最近仕事ばっかりしてて疲れも溜まってるし、少しゆっくり寝ようと思って、その前に琥珀色の気付け薬を氷で割って飲もうと思って、あれ、なんか最近こんなことがあったなあ、と思ったら、ちょうど一週間前、先週の月曜日もまったく同じようなことをしており。ただ、先週の月曜日は夜、村上がCDコマあったので、なかなかキツかった。つい朝、飲み過ぎてしまい。まあそんなことはどうでもいいのだが。

僕のことを知っている人ならば、僕が撮影は大好きだけど画像整理は死ぬほど苦手というのをよく知ってると思う。だって撮影は目の前に魅力的な被写体がいて、その被写体たる人物とコミュニケーションを取りながら、魅力的な笑顔を引き出しながら、あるいは連写でシャッターを切るタイミングを測りながら、ほんの少しでもいい写真を得ようとするクリエイティビティがある。けど、画像整理ときたら、撮影された写真を残すか消すかの二分法で、創造性のカケラもない。しかも、写真屋とか行事の種類とかによって残すか消すかの見えないボーダーラインは上がったり下がったりする。基準が自分の中なのか外なのかわからず、見えない敵と戦っている不安にさいなまれながら、出口のないトンネルを手探りで歩くような感じで作業を進めていかなければならない。

でもね、昨日だったか、一筋の光明が、見えた気がするのね。まだ過渡期だし状況は混沌としてるのでハッキリしたことは言えないんだけど。でも、コツというか、心構えの基本みたいなのが見えてきた気がする。twitterとかインスタのストーリーズとかfbにも断片的には書いたかな、ひとことでいうと、創造性がないと思われていた画像整理に価値を見出すというか。

僕はずっと昔、雑誌の編集者をやってたことがあって。デジカメ雑誌の編集部が長かったんだけど。んで、ページの大体の内容を決めて、ライターさん(カメラマンさん)に写真と文字原稿を発注するんだけど、こっちの見当ミスその他の理由で文字原稿がイヨーに長く届くことがある。こっちの見当ミス以外の理由としては、ライターさん(カメラマンさん)がなんらかの理由でこちらのお願いした文字数を遥かに超過した文字原稿を送ってきてくれたりすることもあり。

あるていどテキストエディタで短くしてデザイナーさんに送るんだけど、やっぱり長い原稿はあふれるわけ。雑誌になったときに空白になる、ページの下部とかに溢れた原稿を流し込むボックスがあって。そこに浮かばれない溢れた原稿が溢れてる。僕ら編集者は泣きながらInDesignとかでその文字原稿をしこしこ削る。泣きながらね。僕なんかは皆さんご存じのとおり優柔不断な性格で、でも最終的には泣く泣く原稿を削るわけですよ、溢れたボックスを空にするまで。そういうときに思うことは、たぶん編集者ならみんな一緒だと思うけど、必要量だけ原稿を削らないと雑誌の記事ページとして成立しない。だから削って空に溶けていった原稿もきっと報われるに違いない。あえて言葉を選ばずにいうと、成仏したに違いない、と。

生きるも仏、死ぬも仏。

なんの話だっけ。上に書いた編集者時代の苦闘、カメラマンを長くやっていても忘れることはひとつもないんだけど、でも画像整理はまた別の種類の脳味噌を使うわけで。文字と違って画像だし。しかも他人の原稿じゃなく、自分で撮った写真だしね。でも、方程式は一緒だよね。消して捨て去る画像にも、命は宿ってる。いろんな意味で、彼らの存在があるからこそ、残される画像が活きるわけで。

そんなことを、ようやく学びつつある。いままでは4000枚、5000枚という、自分で撮った写真の枚数の多さに怯えてしまっていたものだが、案ずるより産むが小野ヤスシの箴言のとおり、えいやっと始めてしまえば、そんなにたいした作業ではないわけで。とくに画像整理の作業を始める前に、がっつり30分、1時間って祈れば、頭はスッキリして脳内の梗塞予備軍はストッと抜けて脳味噌のあらゆる部分はそれぞれにガシガシ仕事を始める。それがすごいと思う。

ここからが本題だけど(笑)、僕は昔から、人間の真の生きる意味というのは人のために尽くすことにあるのだ、みたいな言葉を聞いて、ああ、なるほど、たぶんそうなのかもね、って反発はしないまでも、でも自分の腑にストンと落ちるというのには程遠い状態だった。でも、この日蓮仏法を実践し、人生の師匠の著作を読み深めるにつれて、だんだんその本当の意味がわかってきた。

簡単に言うと、人間をはじめとして、すべての生き物は、自分で願ってこの地球上に生まれてきたのよ。この地球もそうだし、宇宙全体がまさにそうなんだけど、この宇宙じたいがひとつの生命体なのであり。なので喩えていえば、宇宙と僕ら人間の関係をいうと、僕と僕が毎日せっせと出産しているオタマジャクシの関係であり。あ、喩えとしては不穏当でしたね。笑

それはそれとして。僕はよくバスケットボールの試合を撮るんだけど、レギュラーのメンバーがいて、補欠のメンバーがいて。補欠のメンバーも、でもいつ監督に「行ってこい」っていわれてもいいように、試合に出てないときは全力で声を出して自分のチームの応援をしてる。で、監督に呼ばれて、そのときがきたら、全力でふだんの練習の成果を発揮する。うまくいくかどうかは、だれにもわかんないけど。

僕ら(=いのち)って、まったく一緒だと思うんだよね。ふだんは宇宙に溶け込んでいて(冥伏していて)、なんかの拍子に生命というかたちで物理的な肉体を得てこの地球に降り立つ。

何度も同じことを書くけど、宇宙の願いっていうのは、
・命を育みたい
・命を生み出したい
・生きとし生けるものを幸福にしたい
この3つだと思うから、宇宙に生み出された我々の使命というか仕事というかやるべきことというのは、まったく同じなわけで。

人間以外の動植物が本能のままに生きている、というのは、考えてみれば宇宙の思いをそのまま体現してるわけで。人間だけが、自由すぎて、宇宙の意思、宇宙の願いを平気で裏切る。

だから人間には宗教が必要なんだね。人間以外の動植物に宗教が必要ないのは、そういう理由からであり。

なんの話だっけ。イオン謹製の琥珀色の気付け薬、そんなに不味くないです。ふだん仕事の合間とかにこれだけ長文を書くのはなかなか至難の業だから、イオン謹製の琥珀色の気付け薬、勲一等ってとこかな。600円の元は取れたと思う。おやすみなさい。

上に書いたようなことがわかったので、僕はいつ死んでもいいと思ってる。来世はベトナムかブラジルかインドに生まれてきたい。そしてこの仏法を自分の身のまわりの人たち全員に教えてあげて、その尊い一生を終えたいと思う。

いつものように、なんのオチもありませんが。笑

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