家族集合写真とか…

きょうは四街道で、幼稚園の体操・新体操の発表会だったんだけど、発表会の前後に、外の看板の前とかで、家族の集合写真とかを撮るわけですよ。少しでも売上を向上させるために。

むかしはこの家族に声をかけて、集合写真を撮る、っていうのが苦手で苦手で仕方がなかった。

やっぱり自分は独り者で、という、負い目?コンプレックス?劣等感?みたいなのが拭い去れず、どっかに、なんで独りもんのおっさんが、こんな幸せそうな家族の写真を撮らなきゃいけないんだ、と心のどこかで思ってたんだろうね。そういう負の感情は、まったくなくなったなあ。

なんでかって考えたんだけど、まあ慣れたっていうのも大きいとは思うんだけど、それだけじゃないな。たぶん自分が少しだけ人間的に成長したんだと思う。子どもの写真を撮るにしても、むかしはどっかに単なる仕事っていう意識があったんだけど、だんだんと、その子どもの親の気持ちになって撮るようにしてる。時分割で、高速で切り換えるわけね。

だれかがいってたのか、自分で気がついたのか、忘れちゃったけど、たぶん、親は、自分の子どもが世界でいちばん可愛い、かっこいいと思ってると思う。客観的にどうであるかは別にして。っていうか、親ってそうじゃないとダメだよね。きっと自分の親もそうやって僕を育ててくれたに違いない。サッカーでも、新体操でも、自分の子どもが上手いとか下手とか、そういうことは関係なく、自分の子が最高だって思ってると思う。そう思いながら、僕も写真を撮るようにしてるのね。それも、無理やりにそう思おうとしてるってわけじゃなく、けっこう自然に、そう思えるようになってきたというか。そうすると、いい写真が自然にいっぱい撮れるよね。被写体は自分の鏡だから。

きょうも、朝の看板前の家族集合写真、それから終わったあとの歩きながらの家族スナップ、どっちもいい写真がいっぱいあって、倒れそう。というのは大げさだけど、なんかとっても幸せな気持ち。人の写真を撮って死んでいけたら、こんなに幸せな人生はないなあ。とくに長生きしたいっていう欲もないので、あと5年とか10年後に脳梗塞とかでポックリ死んでも、とくに後悔はない。来世はベトナムかインドか南米かアフリカの山奥に生まれて、都会に出たときに仏法に出合って、その村の一粒種となって、この仏法を弘める、そんな人生がいいなあ。日本もいい国だけど、そろそろどっかに行きたい。笑

このあとイオン謹製甲類焼酎紙パック1.8Lのお湯割りでも飲んで寝ますかねー。

そうそう、きょうは近所の同世代の男性のお宅を訪問して、地獄と天国のお箸の話をさせてもらったんだけど、ぜんぜんピンときてなかったみたい。知ってますか。お釈迦様が地獄に偵察?に行ったら、みんなお腹を空かせてた。なんでか。箸が長すぎて、食べ物を自分の口に運べないのだ。お釈迦様がこんどは天国に行ったら、やっぱり箸は長かった。でもみんなしっかりごはんを食べれてた。なんでか。長い箸を使ってお互いに食べ物を食べさせてあげてたから。

なんかすごいシンプルな寓話だけど、ものすごい大事な真理を含んでるよね。トランプとか見てると、いまの時代にいちばん必要なことなんじゃないかっていう気がする。

人のために火を灯せば我が前明らかなるがごとし

人のために火を灯す人生を送りたいなあ。
自分が幸せになるかどうかは、けっこうどうでもいい、というか、自分が幸せになることを人生の目標にするのは、ちょっと味けないよね。うん、味けない。さっき書いたことと矛盾するかもしれないけど、動物だって、自分の子どもとか家族とかを大事にするんじゃん。人間に生まれたからには、それだけじゃあなんか物足りないというか。せっかくこの21世紀に生きてるわけだし。ね。

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