シェアリングエコノミーって…

今日は原木中山の保育園で、卒園式の撮影だったんだけど。

駅からけっこう離れているので、いつも近隣の駐車場にクルマを止めて、そこから歩くんだけど。

昨日、GoogleMapsで調べたら、けっこう近くに駐車場を見つけ。よく考えたら、去年も同じ駐車場に止めたことを思い出した。笑

ただ、問題は、狭くて数が少ない。たった5台分。

だもんで、5時半に起きて6時には家を出た。集合時間は8時45分だというのに。

京葉道路で行ってもいいんだろうけど、早朝だし、空いてると思われたので、下道で。

すぐ着いた。セブンイレブンでお弁当とコーヒーを買い、目的の駐車場にたどり着いたら、無情にも「満」の赤い表示。仕方がないので、地下鉄東西線の原木中山駅前に行き、そこに止めた。狙ってた、満車だった駐車場に比べ、倍くらい遠い。歩いて7分って出てた。600mくらい。

ふだんなら、なんてことはないんだけど、今日は雨が降ってたので、水色の小さな折りたたみ傘を差して歩いた。しかも、集合写真を撮るのにハスキーの重い三脚は必須だし、あと去年の教訓を活かし?2段の脚立をクルマから持って行くことにした(写真屋さんから、指示のメールでそう促されていた)。

なので、けっこうつらい行程で。

人間って、苦しいときに、いろいろ考えるものだよね。幸せいっぱいの時は、あんまり頭を使わない。笑

目的地たる保育園まで歩きながら、どうしてこんなに左右に空いてるスペースがあるのに、僕のクルマをたかだか2時間ばかし止めさせてもらうことができないのだ。答えは簡単だ、日本は資本主義社会であり、土地の私有が認められているからだ。マンションや一戸建てに付属の駐車場は利用者が固定されているし、意外にガラッと左右に広がる空き地というか月極駐車場?も、それなりに埋まっているのだろう。それはもちろんそのとおりなのだと思う。別に誰も悪くない。誰かを責めようと思って、この文章をわざわざ福岡行きの飛行機を待つ羽田空港第一ターミナルでしたためているわけではない。

最近、シェアリングエコノミーという言葉をよく聞く。いままでは所有が当然だった、いろんなものを誰かとシェアする。まあ、図書館というのは、昔からあるシェアだし、最近はクルマとかも、あんまり頻繁に乗らない人にとっては維持費が馬鹿にならないので、使うときだけ利用する、みたいな。

あと、まあ、メルカリとかヤフオクとか、もう使わなくなった何かを出品して、必要な人に譲り渡すというのも、ある意味、シェアリングといえるかもしれない。

えと、IT、情報技術の進展により、シェアリングは格段にやりやすくなったといえるよね。

音声の電話とか、紙の帳面とかだと、どうやっても難しかったことが、ネット上のデータ処理によって難なくこなせてしまう。これって人類にとって、大きな前進だと思うわけ。あたしが言うまでもないことだけど。笑

マッチングアプリとかも、ある意味、シェアリングといえるのかも。笑

むかし、パートタイムラバ〜、なんて歌ってた米国の歌手がいたけど、いまは若者は猫も杓子もシェアリングでパートナーを見つけて、どんどんお試しで、どんどんとっかえひっかえで。

という話をネットのニュースで読んだ。なので梅毒が大流行してるとな。笑

あたしには縁のない話だけど。

なんの話だっけ。忘れた。そう、シェアリングエコノミー。

なんかこれって、今日気づいたんだけど、仏法に似てるな、と思った。

仏法に説かれる「利他」って、一種のシェアリングなのでは、なかろうか。

自分の中にある他者への慈悲を分け与える。これってどう考えてもシェアリングだよねぇ。

自分とか自分の家族とかしか考えられない人が、そうじゃない人たちにも、施しを与えていく。

慈悲を、分け与えていく。

あたしが所属している創価学会のメンバーが、常日頃から日本全国で、いや全世界で隣人に対して、愛する祖国に対して、実践していることだと思われ。

僕の、今日時点でのモチベーションとしては、って、ずっと昔からずっと考え続けていることなんだけど、利他が成り立つ条件って、どういうもんなんだろう。もちろん、自分に余裕がない人は、周りの人たちに施す、なんてことは難しいと思うけど、裕福な暮らしをしていて余裕綽々だからできる、ってもんでもないような気がするんだ。このへん、どうなんだろうね。

最近の僕の考察によると、戦後、勃興した創価学会は、草創期は「貧乏人と病人の集まり」とさんざんバカにされ、それをバネにして、この仏法を日本中に弘めてきた。でも最近は、みんなそれなりに裕福になり、健康になり、信仰の必要性が薄れているようにも思うんだよね。

たまに読む聖教新聞の記事でも、そのへんの模索というか苦悩は、ずっと続いているように思われ。

田原総一朗っていう政治評論家がいるけど、彼はずっと前から「創価学会は新しい言葉を必要としている」とずっと言い続けているのであり。

もちろん、個別にそれを見つけて実践して功徳をいっぱいにいただき、バンバン利他の活動をしている個人や地域、組織があることも知ってる。けど、創価学会の苦悩は、それを2023年現在の日本で普遍化できていないことにあるのではないか。

疲れたし、レモンサワー缶も切れたので、続きは福岡にて。

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