看板前にて

ようやく2022春の卒業入学シーズンが終わりを告げ、ホッと一息というところ。

入園式、入学式でも、卒園式、卒業式でも、晴れの舞台なので、着飾った親子は、校門あるいは幼稚園・保育園の門の前にある「●●幼稚園 or ●●小学校 ●●年度 第●●回 卒業式」みたいな看板の前で、着飾った親子は、記念写真を撮るわけであり。

僕らカメラマンは、着なれないスーツを着て、その様子を横から撮影するわけで。

そのことについて、今日は書きたいと思った。書こうと思った。

大前提として、写真屋さんによって、求める写真は異なる。そんなにベラボーには違わないけど、でも微妙に違うからこそ、難しいとも言える。さじ加減が。

看板前についても、というか、看板前みたいな写真だからこそ、写真屋さんの求める微妙な違いというのが如実に表れると思われ。

どういうことか、わかりますかね。

えっと、まずは目線のありなし。要するに、僕らカメラマンがメインでその家族写真を撮っているか、それとも、たとえばお父さんかお母さん、おじいちゃんかおばあちゃんが、晴れの日を迎えた主人公を中心とした家族の写真を撮ってる、そのシーンを僕らが横からスナップしてる、という感じなのか。

その写真が、どのような用途に使われるかということと密接にかかわっているのであり。

簡単に言うと、「販売用」か「卒業アルバム掲載」か。販売用であれば、もちろん、目線があったほうがいいだろうね。卒業アルバム用なら、目線がある写真もいいし、誰かが撮ってる脇から第三者的な目線で狙うのもいい。両方あるといい。

で、いまは親はほぼ100%スマホを持っているので、我が子の姿をスマホで撮るわけですよ。

で、そこに立ってるカメラマンに、すみません、これでも撮っていただけますか、とつぶらな瞳でお願いされるわけです。たいていはお母さんから頼まれる。そしたら嫌だとは言えないじゃないですか。写真屋さんに依っては、まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけど、ちゃんと断ってください、と言う。そらそーだ。看板前の家族写真を、親御さんのスマホで撮られちゃったら、僕らがせっかくカメラで撮った写真が売れなくなるからね。それは火を見るより明らかなわけで。

こないだ行った柏の幼稚園では、看板前に、幼稚園の先生が撮影係としてスタンバってて、スマホで家族ごとに写真を撮られていた。どうも、幼稚園からプリントしてご家族にプレゼントするらしい。僕も無理矢理スーツを着せられて、横から看板前の家族写真をパチパチ撮っていたのだが、時間も限られてることだし、目線なしの、お邪魔虫っぽい写真ばっかりになるわけで。

あ、そうそう、幼稚園の先生がスマホで家族の写真を撮ったあと、だいたいお母さんが、これでも撮ってもらっていいですか、とご自分のスマホを先生に差し出す。先生は微妙に嫌な顔をしないようにしながら、そのスマホでも家族写真を撮る。この繰り返し。

で、たいてい看板前の写真タイムって、時間が限られてるわけで。だって、この時間にきてください、という時間と、式が始まる時間は、そんなにベラボーに離れているわけじゃないから。

何が言いたいか、少しずつ伝わってるといいかなと思うんだけど、その幼稚園の入学式、写真屋さんの二代目の大将も一緒にいたんだけど、しばらく姿が見えなかったので、その間だけでも、と思い、お母さんが、このスマホでも…と言ってきたスマホを受け取って、そのスマホで撮影することに徹してたわけ。だって、幼稚園のスマホで撮影した写真をプリントでプレゼントし、親御さんのスマホでも同じシーンを撮影してたら、僕ら写真屋のカメラマンが撮った写真がそんなに売れるとは思わないわけで。

今季も練馬の写真屋さんに小学校の卒業式と入学式の撮影を依頼され、行ってきたんだけど、卒業式では、ご家族が看板前で記念写真を撮るのを、斜め後ろから撮ることに徹してたわけ。先ほど書いたように時間も限られてるし、親御さんがスマホで撮ってるのに、カメラマンが同じ写真を撮っても、そんなに意味があるとは思えない、と思ってたから。そしたら写真屋さんの二代目の大将に、オグラさん、目線をもらった写真を中心に撮ってください、と言われてしまい。仕方なく?入学式では意を決して、目線をもらった写真を撮るようにした。

当たり前の話だけど、たとえば、お父さんとお母さんと新入生という3人で来てたとしたら、家族3人の写真を撮るためには、第三者の存在が必要になる。まあ、そばにいる別の親御さんに頼んだりすると思うんだけど。写真屋のカメラマンは、そこへ割り込んで、じゃあ撮りましょう、といって家族全員の写真をデジタル一眼レフで撮るわけですよ。

そのことに、どれだけの意味があるのかどうか、僕にはよくわからない。

さっきも書いたけど、幼稚園の入園式では、親御さんのスマホを預かって、デジタル一眼レフを公園の石垣に置いて、ボランティア撮影者に徹しましたよ。なんかね、それでいいんじゃないかと思うんですよね。どういうことか。僕らカメラマンは、っていうか、カメラマンに限った話じゃないんですけど、ここぞ、というところで勝負すればいいんじゃないかなと思うわけですよ。

たとえば卒業式の証書授与の写真。これは学校から依頼された写真屋のカメラマンが独占的に撮影するわけじゃないですか。それを卒業生のご家庭では、半強制的というわけではないでしょうけど、基本的には集合写真とセットで購入することになってるようで。

なんかそういう、「自分がいなきゃダメなんだ」みたいなシーンで勝負したいなと、僕はずっと思ってるわけ。根本的に、ひとと同じ地平で勝負するのが好きじゃないのよ。

なにをいってるか、よくわかんないですよね。

看板前の写真は、誰でも撮れるわけじゃないですか。いまのスマホと、僕らの使ってるデジタル一眼レフで、そこまで画質が違うとも思わない。

だったら、そういうところは「譲って」、本質で勝負したいと思うわけ。

その話を、こないだ練馬の写真屋さんの撮影が終わった後、近所のファミレスでご飯を食べながらしたんだけど、ちょっと時間が足りなかったかな。ほら、僕らは行事ごとに撮影を依頼されるだけなので、どんな写真がどれだけ売れたか、トータルの売り上げがいくらくらいか、って情報はいっさいもたらされないわけで。だから、現場でも「的確に」動こう、と思っても、自分の経験則とか思い込みでうごくしかないってところも、あるよね。ま、そこまで外れてはないと思うんだけど。

なんの話だっけ。ここ何日か、書きたいと思ってたことが、それなりに上手に書けた気がするので、このままアップしますね。

このあと何日かかけて推敲して完成を目指します。ウソだけど。笑

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