聖教新聞電子版の記事をtwitterでシェア

きょうも聖教新聞の代配、完了。もう12月だから、かなり暗いな。ぜんぜん朝焼けが見えないよ、と思ってたら、いつもより30分早く配ってることに気づいた。笑

それはそれとして。

僕は紙の聖教新聞の他に「電子版」をお金を払って購読してるんだけど、以前はいいなと思った記事を画面キャプチャ取って友人に送るためというのが主な目的だったんだけど、最近、記事をSNSでシェアできることを知り。

で、シェアしようとすると「あと10回」みたいな表示が出る。

ん?1か月で10記事しかシェアできないのか。けっこうセコいな、と思ったんだけど、いちおう営利事業だし仕方ないかなと諦めてた。で、なんかの拍子に、1か月10記事じゃなくて「1日10記事」であることを知り。わお! 1日10記事だったら、ほぼ無制限といってもよくね? と驚いた。いいなと思った記事を、片っ端から、1,700人近くのフォロワーがいる僕のtwitterアカウントでツイートすればあっという間に広宣流布が進むのではないかと。
(x x)☆\バキッ

ただ、これには落とし穴があり。1日10記事シェアできるとはいっても、記事を無料で読めるのはシェアした当日だけ、のようで。

いや、キチンと検証したわけではないし、そういう解説ページを確認したわけではないのですが、自分がシェアしたリンクをクリックしたら、次の日には「この記事は有料会員限定です」という無慈悲なメッセージが現れたから、まあそうなのかなと。

この仕組み、どうなんだろうなあ、と思わないではないが、聖教新聞もお金を払って購読している読者が世界中に何百万もいるわけで、それを考えたら、おいそれと記事を無料で公開するわけにはいかないのは、よくわかる。

たまに一般紙の記事を、世の中に伝えたいのならば無料で公開しろよ、って記者アカに絡んでる人がいるけど、それはどこまでいっても権利者たる新聞社が決めることで、一読者が「無料公開してくれたらうれしいなあ」というのはアリだとしても「無料公開しろよ」と迫るのは筋違いだと思われ。

そんなことで、もうちょっとどうにかならないのかな、と思いながらも、1日10記事シェアできる聖教新聞電子版のサービスを有効に活用していきたいと思ってる。

なんかこういう話って、僕の周りの人たちは、誰ひとりとして、してないわけで。

コロナ禍で、日本は諸外国に比べてIT化が極端に遅れてるということが如実に浮き彫りになったわけだけど、これってなんでなんだろうね。

ひとつには、戦後の高度成長期を過ぎて、国民全体に「いっちょ上がり感」が蔓延したからだろうね。日本はイケてる先進国で、いまのままでいいんだ、みたいな。

そして日本人の国民性、まあまあ過ごしよかったら、あんまり文句は言わない、みたいな。集団としての和を重んじる、みたいな。

仏法の哲理に、異体同心ってあるけど、これも勘違いしてる人が多い気がする。ただ機械的に団結せよ、ってことではないと思うんだ。たとえば創価学会は公明党の支持母体だけど、だからといって創価学会員であれば公明党を盲目的に支持しろ、ということでは絶対にない。

根本精神は共通であると信じ、全体的には応援しつつも、ひとつひとつの具体的な政策とか、連立相手の政権与党との関係とか、そういうことに意見をいうことがダメだというのであれば、自由闊達な議論も封じられ、一部の権力者(あえていうが)の思うがままになってしまう危険性もあると思う。そこは庶民の健全な批判精神がいい感じで機能してないと簡単に道を誤る。

さっきも書いたけど、なぜ日本がここまで衰退してしまったのか。やはり付和雷同みたいな、別の言い方をすると、フリーライダーみたいな人たちばっかりになっちゃったからじゃないのかな。誰か特定の人がフリーライダーで、一部の人が懸命に日本という列車を引っ張ってる、というよりは、大部分の人たちがフリーライダー的な部分を多分に有していて、それで結果的に日本という国が前に進まなくなってる、そんな気がする。

それだけ失政を重ねても、なかなか下がらない自民党の支持率とかを見てると、ものすごくそう思う。

こないだまで行ってた、船橋市がやってる学業支援の事業も、みんな頑張ってはいると思うんだけど、もうちょっと工夫すれば、もっといいモノになるのに、と心の底から思う。

自分でも多少は藻掻いてみたけど、役所と受注してる某企業のハイブリッドで話が通じなかったので、諦めて、姿を消した。

最近行ってる近所の塾でも、まあいろいろあるけど、なんとか我慢して行ってる。クールビズの期間は終了したのでネクタイをしろ、と言われ、仕方がないから八千代村上のイトーヨーカドーに行って処分価格700円のネットタイを2つ買ってきた。なんか言われるかな、と思ったけど、いまのところ何も言われないので大丈夫かなと。いまは黒い綿パンに襟のついたカジュアルなシャツで行ってるけど、そんなんじゃダメだ、本格的なちゃんとしたスーツで来い、っていわれたら、その瞬間に消えようと思ってるけど、なかなか言われない。残念。笑

なにがいいたいかというと、変革への意欲というか、このままではいけない、と思って自分なりに藻掻くことって大事だと思うんですよね。そしてそういう人をみんなで応援する。イチローも言ってたじゃん。「変わらなきゃ」って。

昨日だったか、イチローが高校生を相手にコーチになる、みたいな話を聞いて、この人は本当に野球が好きなんだなあ、とうれしくなった。まあイチロー、これ以上稼ぐ必要ないだろうし。なんか一時代を築いた一流のスポーツ選手で、引退すると文化人とかになっちゃう人がいるけど、なんだかなあ、と思うわ。日本酒のセレクトとか、どうでもいいし。ま、世間が求めてるから、そういうポジションにいるんだろうけどね。あたしのなかでは「有名人」イコール優れてるみたいな価値観って、まるでないから。

若い人たちがインスタとかで芸能人とかを山ほどフォローしてるのを見て、まあ若者が芸能人に憧れる気持ちはわからないでもないけどなあ、と思いつつ、自分の人生を生きろ、って心の底から思うね。

ワイドショーとかでも、芸能ネタって好きな人、多いみたいだけど、ワイドショーだけじゃなく、テレビ番組って、有名人が馬鹿騒ぎしてるだけの番組がほとんどのような気がするけど、そんなことにうつつを抜かして自分の人生を終えてしまったら、死んだあとで死ぬほど後悔するのは自分だと思うけどね。死んだあとで死ぬほど後悔するっていうのがどういうことか、自分でもよくわからないけど。まあけど、仏法は永遠の生命を説いてるわけで、今世ではたまたま人間に生まれてこれたわけだけど、来世がどうなるかは、今世までの収支で決まるわけで。

そんなことをつらつらと考えました。すこし寝ます。笑

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