一切世間の治生産業は…

昨日行った、うちからいちばん近い県立高校の体育祭の画像整理、学年別のフォルダは完了。あと全学年が混ざってる種目の画像が4000枚くらい残ってるけど、続きは明日。

あたしはSNS、twitterとインスタとfbをやってるけど、これはやはりfbに書こうと思った。え、なにかって?

んとね、いきなりこいつは何を言ってるんだ、と思われる方が大半だと思うけど、なんか画像整理してて、あ、これって仏法なんだな、って思ったんだよね。

わけわかんないですよね。高校生が晴れ渡った秋空のもとで全力で走ったり、クラスみんなで縄跳びを跳んだり、騎馬戦でぶつかり合ったりしてる姿を、デジタル一眼レフに高倍率ズームをつけてバシャバシャ連写して、その画像データをパソコンに吸い出してフォルダ分けして画像を取捨選択して、っていう作業全体が、仏法だな、と。

仏典に「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」ってあるけど、まさにそうだなと。そして僕が大して儲からないのにスクールフォトの分野にこだわって、全力で頑張ってる若い人たちの姿を写真に収めてるのって、このためなんだよな、って思った。

きょう、某写真屋さんのエースといっしょの現場で、卒業アルバム用のほかに販売用としても撮影画像を活用する、という話になり。具体的には、生徒の皆さんが卒業後にネットで販売するんだって。へえ、そうなんだ、って思った。

リレーで全力で走ってる高校生たち、ものすごくキラキラ輝いてた。僕は昔から不思議に思ってることがあって、まあ写真をやってる人たちにとっては当たり前というか、よく知られた事実だけど、写真って時間と空間を切り取る作業なのであり。空間を切り取るというのは、自分からレンズを向けた方向のある一定範囲の空間であって、異なる位置からはまったく違う構図になるわけで。偶然といえば偶然。たとえばリレーのバトンを渡すシーンでも、カメラマンがどこに陣取るかによって、撮れる写真ってまったく違ったモノになるわけで。つまり同じシーンを見ていても、僕の撮った写真と同じ光景は、たぶん僕以外は誰も見ていない。それに、写真って静止画だしね。現実の一部を切り取るとはいっても、切り取ろうと思って切り取ることで出来上がる写真というのは、もともとは現実の一部だったかもしれないけど、現実の一部にすぎないというのではないわけで。そこにたぶん写真をやる意味ってあるんだと思われ。

僕はセンスも野望もないのでアートとしての写真とかはあんまり追求してないんだけど、職業カメラマンとして、身近な被写体というかお客さんに、えー、っていうささやかな驚きを届けたいと思ってる。リレーでものすごいいい表情で全力で走る高校生たちは卒業後にネットで目にする自分の勇姿に、あ、あのカメラマンのおっさん、こんな自分の姿を写真に残してくれたのね、ってちょっとだけ嬉しい気分になるかなと思うと、こっちもうれしい。

「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」っていう言葉もあるけど、ほんの少しの違いだと思うんだよね。自分と自分の家族の幸せばっかり考えて人生を過ごすのと、他人とか他国とか世界全体とかの幸福をほんの少しでも考えて生きるのと。

あんまり関係ないけど、僕はこの地球でいちばん大好きな女のインスタのストーリーが見れるようになって死ぬほど嬉しい(こないだ会ったとき、見れるようにして、とお願いしたわけだが)。人はこれを功徳というのだろうか。笑

あいかわらず論旨がぐじゃぐじゃですが。明日は柏の小学校の運動会。明日も頑張る。

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