クツとか、昨日の続報とか

昨日は新しい写真屋さんのローカルルールにたっぷり苦しめられたって話を書いたと思うけど、その関連の話を。あたしはいまクツっていつも履いてる革靴しかなくて、スニーカーのたぐいはスポルティングの安いのを何回か買って履いてたんだけど、安いだけあって、すぐにダメになる。穴が開いたり足の裏が当たる部分が減ったり。なのですごい信頼性とかは皆無で。じゃあ高いヤツを買えばよくね?と思うと思うんだけど、どうも昔から、クツには根本的に重きを置いておらず。長距離を3時間以内で走る趣味はないし、体育館の床の上でボールをドリブルしながら駆け回り小さなカゴにボールを投げ入れる趣味もない。クツなんてもんは、道路の灼熱を遮って、落ちてるクギが足に刺さらない役目さえ果たしてくれればいいかなと思ってる。

で、昨日も当然、革靴で撮影に臨んだんだけど、徒競走とか、地面に座り込んで撮るシーンがけっこうあって。そういうとき、あのごろんとした革靴がけっこう邪魔になるんだよねぇ。ありとあらゆる意味で。まあその思いはけっこう前からなんだけど、あたしの悪いクセで心の底から実感できないと動けない、行動に移せないってところがあってさ。まあ心の底から本気になって行動を開始したら、気が狂ったように実現に向けて動き続けるんだけど。B型だもの。笑

それはいいとして。そうそう、クツクツ。笑

で、知ってる人は知ってると思うけど、冬の極寒の時期を除いて、許されるシーンだと僕はクツを排除して、サンダル履き。いま履いてるのは去年の夏に岡山のイオンで買った灰色のヤツ。すごい気に入ってる。ただ日本人って形式を気にするから、サンダルを履いてると眉を顰められたり、することがけっこうあるわけで。なので、自主規制も含めて、ここはちょっとアレかな、という場合は殊勝に革靴を履いていく。少なくともクルマを降りるときに革靴に履き替える。

日の出とともに描き始める学校の校庭での作業とかもそう。朝の7時とかに学校の先生が来るから、そのときに裸足にサンダル履きだと心証がよくないかなとか。まあTシャツは自分にOK出してるけどね。下描き作業中は。

なんかムダに話が長くなってるけど、最近あたしが注目してるのは、限りなくサンダルに履き心地が近い、クツサンダル?サンダルクツ?なんちゃってクツ?みたいなのが台頭してるってこと。もしかして、前から?笑 あたしがアタマが固いだけで、気がついてなかっただけ? まあ、ズックとかスリッポン?とかって呼ばれる、なんか軽量で気軽なヤツ。嗚呼、あたしが目指す道はここにある、って昨日イオンの激安バーリアル500を飲み終えてエタノールに浸された脳味噌でAmazonを見てて思ったよ。なんで靴紐に縛られてたんだろう。そういう趣味はないのに。既存の価値観にがんじがらめにされてたのは、実はオレだったんじゃないかって。

まあ、こんなどうでもいい話をだらだら書いてもしょうがないですね。結論としては、今日の夕方あたり、愛するイオン東習志野の靴屋に行って、なんかよさげなヤツを買ってきますよ。軽くて安くて道路に落ちてるクギが足に刺さらなそうなヤツ。なんつったって安さは正義だよ。だって1500円とかだったら、1、2か月もてばOKって思えるじゃん。最近毎日買ってるコーン入り大容量カット野菜5個分だよ。カラダにもいいし。なんかそのクツを履いたら、単焦点つけたD4810をもって散歩に出かけたくなるじゃん? わかんないけど。あ、そうそう、あたしは靴の底?足の裏が当たる部分が、履いてるうちにだんだんすり減って劣化していくのが、たまらなく我慢できないんだよね。かといってなんか敷くのもウザくて嫌だし。だとしたら、クツのほうでどうにかしてもらうしかない。すり減らない材質を使うとかさ。

けど、そういう使い捨てに近いクツ、もしかしたら靴下をはかずに素足でアレしてもいいのかもね。材質的に。それを考えたら、まあ本質はサンダルで、見た目だけまあぎりぎりクツってことで、僕みたいにB型のくせにぎりぎり世の中の常識とかにまっこう歯向かう元気はないって男にピッタリかもね。必要な状況になったときに靴下をおもむろに履けばいいわけだし。

なんていうのかな、あたしはムダなこととか理不尽なことが死ぬほど嫌なんですよ。宇宙でいちばん嫌いな言葉は「決まりだから」とかかな。話は急速に結論に向かうけど、でもというか、だからこそというか、宇宙に元初から備わる?宇宙のリズムというか法則というか摂理というか、まあ宇宙生命ですね、太陽と地球を生命が誕生できる絶妙な距離に配置し、地球に生命を進化させ、人類に文明を開化させ、日々の我々の活動の根幹を成している宇宙の摂理に納得したからには、それに逆らうことはできないし、それを信じて、それに従って、それが求めるというか、そういう生き方をすれば最大に宇宙のリズムと合致して生きられるよね、という生き方を残りの人生では全力でしたいと思うし、それを全力で人にも勧めたいと思う。それが知ってしまった自分の使命だと思うし。

安いクツと仏法って、どんな関係があるんだろう。

まあクツはどうでもいいけど、最近よく思うのは、仏法と自由って、どんな関係にあるんだろうって。人類の歴史が一面、自由の追求であったことは論を待たないと思うけど、じゃあ人類が自由を追求してきたことって、宇宙のリズムつまり仏法とどんな関係があるのかなって。いまふと思ったけど、人類が目指してきた自由って、仏法のすべてではもちろんないけど、その一部であることは、間違いないかな。たぶん大切なのは、自分だけの自由を追求するんじゃなく、自分が従えてる者たちとか、自分と敵対する勢力とか、あるいは自分よりもずっと後の世代とかに対しても自由を掴ませてあげる努力を怠ってはならないということだよね、たぶん。そうでなければ自由はわがままとか専横とかっていうのと大差ないことになっちゃうよね。すごい飛躍するかもしれないけど、自由って宇宙のリズムに則って生きることじゃないのかな。だってそれが宇宙生命によって生み出され、宇宙生命によって育まれた我々の可能性をもっとも発揮する道だから。なんか勝手に自分で結論を出して悦に入ってますが。いつもですが。笑

しかし我ながらよくこんな長文をだらだらiPhoneでfbのオンラインエディタで書くよね。途中で落ちたらどうするんだろう。

また書くんだよ。笑

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