「結婚してもしなくても、どっちでもいいと思うの」

いまさっきの机の上。時計はつねに1時間遅れ。笑

午前中から酔っ払ったヤツが13時過ぎに書くことがあるとしたら、たぶんこれかなと思う。

僕の知り合いにHさんていう女性がいる。 僕よりもいくつか年上で、だんなさんと大学生の娘さん、高校生の息子さんがいる。

その方が、たまに思い出したように僕に向かって、こういう。

あたしは結婚って、してもしなくてもいいと思うの。結婚だけが幸せじゃないし。結婚したからって幸せになるって訳でもないし。

まあ、僕も大人だから、だまって聞き流せばいいんだろうけど。いや、過去に何度かはスルーした。そのつど、あ、ひとこと言おうかな、と思いつつも。

こないだ、たまたまHさんも含めて、4人くらいで袖ヶ浦のほうまで所用で行く機会があり。その道中、たぶん帰りだったと思うけど、また同じことをおっしゃる。

少し話は変わるかもしれないけど、人間って、命って、独立採算制というか、それぞれが独自に活動しており。そう、だからこそ「いのち」と呼ぶにふさわしいわけで。たとえば僕が日々浪費している僕の分身だって「いのち」と呼べないこともないとは思うけど、でも生物学的には独立した命とは扱われないわけで。たまたま他者と結びつくことがない限りは。

僕はね、究極的にいえば、仏法って、宇宙生命を感じることだし、すべてのいのちが全部つながってることを理解することだし、僕らがふだん口にしている「食べ物」ってすべてがだれかの命だし、ということを命の底から実感することだと思っている。 だから僕は「完食」という言葉が大嫌い。だって人の命をいただいているのに「残す」ってナニ? 自分のために命を投げ出してくれた人に、ごめん、食べきれなかった~wwなんて死んでもいえないし。

僕ら人間がだれかが捧げてくれた命をいただいて生きているとしたら、僕らは全力でその恩返しをすべきなんじゃないか? そのために宇宙生命は僕ら人間をこうやってこの世に送り出したんじゃないか。1年くらい前からそのことに気がついて、日を追うごとにそれは確信に変わりつつある。ああ、この真実を世の中に弘めることを広宣流布というのだ、とようやくわかった。

せっかく人間として生を受けたのであれば誰かを傷つけたり誰かを騙したり私腹を肥やしたり誰かを殺したり誰かを陥れたり自分ばっかりオイシイ思いをしたり、というのは論外だと思ってる。とはいえ、人間だってひとつの命だから、そういうつもりはなくても、自分を基準にする、というのはどうしても抜け出れない陥穽なわけで。

とくに若い頃はそう。自分の命(自我といってもいい)を自分でちゃんと認識し、確認するまでには、けっこうな時間がかかる。あるていどまとまったころを「大人」と呼ぶのかもしれない。そんなこんなで、51にもなって、ああ、自分を唯一無二の基準にして、こんなひどいことを言ってしまった、本当にごめんなさい、と思うことはちょくちょくあるんだけど、まあ、同んなじことを人の振る舞いにも感じることはあるよね。たいていは、笑って過ごすけども。

じゃあなんで今回、Hさんに忠告?したかというと、Hさんは立派な立場をお持ちな方で、さまざまな境遇のご婦人とも日頃から接する機会が多いわけで。僕に対して言うように「結婚だけが幸せじゃないですよ」なんて相手かまわず言ってたら大変なことになるよなあ、と所謂ひとつの老婆心ってヤツですね。老爺心って言葉ある?笑

なんの話だか忘れたけど、まあ、教訓としては、「自分を基準にしたらいかん」「自分だけが正しいわけでは絶対にない」「戦争というのは相手が一方的に間違ってると思うところから起きる」「自分にはそのつもりはなくても、相手がどう受けとめるかは別問題」くらいかな。笑

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