マスコミからパーソナルメディアに。

最近、Facebookとかをみてると、マスコミで仕事をされているカメラマンさんやライターさん
などが、仕事が厳しい、ギャラが下がった、ということをよく書かれており。

僕なんかが言うことじゃないけど、これだけインターネットが普及して、個人が自由に
情報を発信できて、かつ相互にコミュニケーションを取れる時代、一方通行である
従来のマスコミ、マスメディアが、先細りになっていくのは、あるいみ当然のことで。

いちばん分かりやすい例でいえば、若者は携帯とかのコミュニケーションにお金と
時間を使い、民放テレビのバラエティとかはどんどん見なくなってる、という…。

もちろん、いますぐすべてのマスコミ、マスメディアがなくなることはない。必要なものは
必要なサイズで、すべからく残っていくことだろう。ただ、トータルのサイズというのは、
従来の何分の一、何十分の一に、なっていくと思われ。

そして、これも僕なんかがえらそうに書くことじゃないけど、マスコミの去った場所を
何が埋めるかといえば、パーソナルメディア、それからローカルなコミュニケーション
の手だてとか場、だよね。

考えてみたら、僕がいまお金をいただいてるお仕事は、みんなマイクロかつ
パーソナルなメディア、なのであり。卒業アルバム用あるいは販売用の
学校写真撮影、それから塾講師。一度やった仕事がものすごく多数の人に
届いて莫大な金銭を生み出すということは絶対にないけど、でも小さな満足
とかを丁寧に積み重ねていく、それなりの充実感を感じる営みなのであり。

ずっと前から書いてるけど、ローカルなSNSの取り組みとかも、それからもっともっと
出てくるといいな、と思ってる。というか、出てくるに違いないと信じてる。

また話が飛躍するけど、どうして僕がベトナムのハノイに移住したいと思っているか
ということを考えると、ひとつには、日本の東京とかは街の規模がでかすぎて、
たとえば知り合いと飲むとかっていっても新宿とかになってしまい、たとえば土曜日の
夜に楽しく飲んでも、終電を気にしつつ、電車やバスをいくつも乗り継いで帰って
こなきゃいけない、という現実がある。なんか違うかなあとずっと思っていて。
いや、もちろん現実は現実として、ありなんだけど。
たとえば僕がハノイに住んでたら、友だちと飲んでも、自転車、バイクタクシーあるいは
徒歩で帰宅できる。そういう距離感が自分には合ってるし、好きというか、心地よいと
いうか、しっくりくるのだな。
あ、誤解を怖れずに言うと、じゃなくて、誤解されないように書いておくと、ハノイに
住みたい理由は、町内で飲みたいから、だけじゃないですよ。(笑)

それはそれとして。

やっぱり人間って、肉体を伴うものだから、直接顔を合わせて、相手の表情を見ながら
その人の声を聞きながら仕事をしたい、というのが自然なことだと思う。
そしてできれば、僕はナマケモノだし、体力もそれほどないので、毎日1時間半も2時間も
満員電車に揺られて職場に通勤するのは、できれば避けたい。

あれれ、なんの話かわかんなくなってきたけど。まあ、そういうこと。

続きはあとで気が向いたら書きます。

これは天にツバする行為かもしれないけど、マスコミって、根本的には、ずっと
バブリーな存在なんだと思う。一度の仕事が、数十万円、数百万円をたやすく
生み出すとかって、けだし、すごく変なことのように思う。うーん、なんというか、
うまくいえないけど、所詮水物という、水商売というか。

それでいい、という言い方もできるよね。それでいい、というか、そういうもんだと
改めて認識する、というか。

あるいみ、AKB48をプロデュースしてるデブのオッサンと似たような所為というか。
……というのは、あまりにも言い過ぎだとしても。

いまから15年以上前になるけど、太平洋戦争が終わって50年目の夏、8月9日に
僕は長崎にいた。いうまでもなく長崎原爆忌の撮影取材で。

で、朝から爆心地に近い浦上天主堂に、ミサの取材に行って。
早朝、5時か6時じゃなかったかな。
近所から善男善女が集まってて。その多くは、おばあちゃんと、連れられてきた
孫娘という感じで。

その早朝からの厳かな雰囲気をぶち壊しにしてるのは、僕も含め、その日にしか
こないマスコミ陣。何人かセットで動くカメラクルーは、めちゃめちゃキツイ照明を
祈りを捧げる方々に、浴びせかけたり。僕は僕で、一心に祈るおばあちゃんたちを、
でかいカメラでガシャガシャ連写したり。

自分が撮った写真が夕刊に載ってるのを見て、そしてテレビニュースなんかも
見てみて、僕があそこで見た風景と、あまりにも違っていると思った。愕然とした。
あのマスコミ陣が這いずり回る殺人的な現場はみごとに捨象され、だれがどう
みても、原爆から50年の8・9その日の朝の、おごそかなミサの雰囲気が描き
出されており。

そのときに思ったのは、ああ、拡散するということは、もとが台なしになるって
ことなのね、と思った。そしてもし、もとを台なしにせずに、広く伝えることが
できるとしたら、それだけものすごいエナジーを伴っていないと無理、というか。

ちょっと違う喩えかもしれないけど、お札ってあるでしょ。日本円でもアメリカドルでも
いいけど。お札って、刷れば刷るだけ富が増えるわけじゃないじゃん。いっときは
そういう幻想にさいなまれることもあるかもしれないけど、ワンテンポあとになると
それは単なる幻にすぎなかったんだということが、イヤというほどわかる。(笑)

なにがいいたかったのか、わかんなくなってきた。

昔から僕はそうなのだが、お金持ちになりたいとか、死ぬほどお金を稼ぎたいとか
超有名になりたいとか、大きな仕事をしたいとか、そういうモチベーションはなく、
手ごたえを感じたい、というのを唯一の行動指針としてきた。

もちろん、上に書いたいくつかは、人によっては、手ごたえを感じるひとつの
条件に、つながるのかもしれないけど。

まあ、まとまりがなくなってきたので、このへんでいったん閉じようかと思うのだが、
金八先生(第2部)のテーマソング、人として、のサビの部分、

それでも 人しか 愛せない

というのをぽんとおいて
しめの代わりにしとこかね。

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